愛することの責任

22年前34歳の私の過去投稿

2004/05/09

先日、トラックバック大会のお題「ペット」について
いろんな方のブログを読ませてもらった。
その中でも「早くに死んでしまうからつらすぎて飼えない」という
意見がいくつかあったと思う。

先日、ある人から言われた言葉。
愛するということはつらいことに耐える責任を伴う

つらいことという中に「別れ」が含まれるのはもちろんだけれど、
たとえば大事な人が病気で苦しんでいるのを見なければいけないというのもそのひとつ。

私はそれに耐える強さがまだまだ足りない。
子どものときに体験した別れがつらすぎて、もう2度とあんな思いはしたくないと思った。
だから、「愛する」ことを途中で放棄してしまうくせがある。
後でつらい思いをするよりも、先に自分から投げ出してしまったほうが、楽だから。

もう少し強くなれば、もう少し深く愛せるようになれるんだろうか。
強くなりたいと思う。

22年後56歳の私が思うこと

少しは強くなったと思う。
22年前の私が願っていた「強さ」は、たぶん今の私にはある。

それでもまた、自分がこれ以上傷つく前に先に投げ出そうとしている。
「そもそも愛してなどいなかった」と思い込もうとしている感じさえある。
愛そのものをなかったことにしてしまえば、痛みも存在しないよね。

そう、強さとこの自分の「くせ」はあまり関係していないことがわかった。
じゃあ、なんでまた同じことを繰り返そうとしているのだろう?

このくせ(いわゆる回避型の愛着に近いのかもしれない)は弱さではなくて、
小さいころからの自分の「守りの反射」ってことなのかも。
近づくほど、大事に思うほど、失う未来が先に見えてしまう。
だから、愛を否定してしまえば安全だと、体と心が勝手に判断してしまうのかな。

あ、それでも自分の中に一つ進歩を見つけた。
前記事に関連するけれど、「怖いけれどやってみる」という感覚。


この反射は、長い間私を守ってくれた大事な仕組みだった。
でも今の私は、もう少し違う守り方ができるかも。
逃げなくても、壊さなくてもいいのかもしれない。
そんなことにやっと気づき始めている。

Maktub — 必要な時に必要な事が起きる

タイトルとURLをコピーしました